2017年06月27日

菅生事件

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 極右政党と宗教政党が結託した政府が、“共謀罪”なぞというとんでもない法律を数の論理で強引に成立させてしまった。それが戦前の“治安維持法“”に相当する悪法なのは火を見るより明らかだ。これで、体制がわに都合の悪い言動や行動は、国防だのテロとの戦いだのの大義名分のもと総てが監視・規制・封殺の対象となってしまう。たとえ当事者でなくても、である。

 国家とは体制のことである。つまり安倍政権だ。だから、国“家”と言いながら奴らはその“家”に決して“庶民”を含まない。自らの既得権(力)を侵されるのが嫌だからだ。産経だの読売だのといったアホなマスゴミは、そのおこぼれに与るため、“裏で強姦に手を染める御用ライター”を使い、自分たちに都合のいいようにとどんな詭弁をも弄する。その詭弁の右に倣って、モテない・カネない・仕事ないアイドルオタクのハゲ・チビ・デブつまり“オトコ”が、立場の弱い人たちをネット上で差別・中傷することによってストレスを発散させ殺伐とした世相作りに一役買う。まさに“腐のスパイラルである。“オトコ”は“大衆”と書き換えることもできる。

 国防?  冗談じゃない。国防の名の下に奴らが守ろうとしているのは所詮自らのカネである。そのためには、“庶民”の命を犠牲にすることなどなんとも考えてはいない。テロとの戦い? 笑わせるな。テロとの戦いとは権力の横暴に抗う“庶民”を弾圧することである。言いたいことも言えない法律がゴリ押しで施行される国に自由も民主主義もへったくれもあるものか。

 増長した権力が、愚策を弄し・犯罪を自演し・濡れ衣を着せ、自らに抵抗する勢力を社会的に抹殺しようとする。副題に“ドキュメント菅生事件”と謳った坂上 遼氏の「消えた警官」(講談社)は、その一部始終を精巧かつ明確な筆致で綴ったノンフィクションの金字塔である。まるで小説・ドラマ・映画のような内容であるが100%事実。恐ろしいのは、これが、65年前に国家権力が仕掛けた史上稀に見る悪質な冤罪事件でもあることだ。共謀罪が強行採決されたしまった今、その恐ろしさは一層現実味を帯びて読む者を戦慄させるに違いない

 2014年8月13日・水曜。勤め帰りに地元みずほ台の「福ちゃんラーメン」で独酌。家計簿に呑食の詳細な記載はなし。1,800円なり。

 本当に酒でも呑まなければやっていられない世の中である。電車にシラフで乗ることなどもはや不可能。毎晩ドア際に立ち、男梅サワーを空けながら地下鉄を覆う暗闇を見つめる。すると、目の前のなんか髭ヅラの人相の悪いオッサンと目が合いドキッとする。そして、それが車窓に映った自分であることに気付き愕然とする…。

 今日のお題は“菅生事件”にする。
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2017年05月20日

郷田三良

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 一人、酒場で呑みながら考える。

 (いったい、いつから、なぜオレはこんな人生を送るはめになってしまったのだろう?)と…。

 わかっているのだ、答えは。しかしまず自分に問うてみる。これを“枕”にして自分の今日までの足跡を振り返る。その過程における様々な体験が脳裏に去来する。この思い出を肴にして杯を重ねる。いつか店員に勘定を告げられふと我に返る。こんな酒を、そうだな少なくとも一カ月に一度は呑んでいる。

 敬愛する江戸川乱歩の作品に、『屋根裏の散歩者』という短編小説がある。人生に何の面白味も見出せず退屈の極みにあった主人公が、完全犯罪に猟奇的な関心を示したあげく、となりの部屋に住む知人を、単に虫が好かないという理由だけで、屋根裏の節穴から毒薬を垂らし殺害してしまう。最後は、あの名探偵・明智小五郎がその主人公の仕業と喝破し、主人公は、自分が死刑台に送られる状況に思いをはせる。こんな物語だ。主人公の名は郷田三良(三郎)という。

 必殺の一行がある。

 “「こんな面白くない世の中に生きながらえているよりは、いっそ死んでしまった方がましだ」”(岩波文庫「江戸川乱歩短編集」収録『屋根裏の散歩者』133Pより)

 乱歩の初期短編は、いわゆる純文学の名作と比較してもなんら劣らない。それどころか自分などは遥かに優れていると思う。中でも『屋根裏の散歩者』は特筆に値する。何度読んでも飽きることがないし、読む度に面白さが増してゆく。

 退屈から逃れるため、郷田三良は犯罪に走り実際に人を殺してしまう。それほどまでに退屈がいやだった。

 そうなのだ、退屈は悪なのだ。退屈こそは嫌悪し唾棄し何がなんでも人生から消去すべきものなのだ。三良にとってもそして自分にとっても。

 退屈な毎日に忍従するくらいなら、平凡な生活に埋没するくらいなら、どんなに道を踏み外してもかまわない、好きなことをやり好きなように生きよう。人生は一度きりなのだ、悔いなど絶対に残したくない。心底そう思い自分はそれを実践した。この果てに何が待とうとも、である。

 振り返ってみれば滅茶苦茶な人生だった。五体満足でこうして原稿を書けるのが本当に不思議なくらいだ。かっての自分の上司にも、先輩にも、同僚にも、いまや連絡の取れない人や連絡先すらわからない人が大勢いる。もうこの世の中にいない人だっている。みんな風に吹かれている…。

 2014年8月4日・月曜。勤め帰りに新富町「もつよし」にて独酌。締めて2,624円なり。家計簿には呑食の詳細な記載がない。よほど酔っぱらっていたのだろうか。

今日のお題は“郷田三良”にする。この男こそは自分の分身である。違いは、三良が一滴も呑めない下戸なのに対し、自分が酒場通いをやめられない依存症ということぐらいか。
posted by 彦左小路郎 at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月11日

独歩哀情

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 夏目漱石がビートルズはならこの人は…そうだな、キンクスだろうか…。

 国木田独歩のことである。

 作品集「武蔵野」(岩波文庫)を購入したのがちょうど一年前。4月28日・木曜。東武東上線・志木の駅ビルの「あゆみBOOKS」志木店にて購入と家計簿には残る。税込み712円なり。

 全278ページ、収録全18編、そのすべてが短編である。ちなみに表題作『武蔵野』は小説ではなく紀行文とも異なる。随筆と書けば随筆なのだろうが、作中に煙草をくゆらし眉間に皺を寄せ辞書を首引きにして机に向かう独歩はいない。少なくとも自分には想像がつかない。

 浮かぶのは、見えるものすべてに視野を広げ聞こえる音すべてに耳を澄ませ自然への認識を高め愛情を深め精神を浄化させていく散策中の独歩だ。ここでは行動と執筆が完全に一体化している。その場その場の情景を表すのに最も適した表現を“浄化された精神”がその場その場で紡ぐ。今では死語になった言葉もその中で実に適切に使われ新鮮味を帯び、文節の繋がりも流麗で完全に一つの世界が構築されている。文章によって描かれた“武蔵野”絵画。『武蔵野』はそんな特異な作品である。

 独歩は、机上から大自然について書くのではなく市井の自然に身を置き自然を愛でる。その“愛”が言霊を導く。そして、その“愛”の中には確かな“哀”が息づいている。だからこそ余計にいとおしい。まさにキンクスである。

 2014年8月2日・土曜。勤め帰りに「もつよし」の暖簾をくぐる。酒は、黒ホッピーセットの中いちおか(わり)・バイスサワー2杯。つまみはもつ刺し7点盛りにタン刺し。串焼きメニューからつくねをタレでナンコツとカシラを塩でそれぞれ2本ずつで締めて3,718円なり。

 今日のお題は“独歩哀情”にする。独歩の作品には“哀情”という単語が度々使われる。なんとも美しく、素晴らしい言葉ではないか。
posted by 彦左小路郎 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする