2017年11月14日

地元夜話

 地元みずほ台の駅ビルは東武ストアである。ここのそれは東西に分かれており、東口はテナントが並ぶ専門店街。自分は、ここの“芳林堂書店”がお気に入りでポイントカードも持っている。この専門店街には靴屋もあったが一年半ほど前に閉めてしまった。今、そのスペースには“マツモトキヨシ”が入る。ここでは、二日酔い防止用にとドリンクやタブレットをよく買っている。

 西口は3階建ての本館になる。1階と2階が食料品売り場・3階が衣料及び家庭日用品売り場という造り。まだBig-Aが自宅近くに無かった頃は、つまり自分がナイタイに勤務していた頃は、毎晩のごとく会社帰りに東武ストアの食品売り場を利用した。レジに立っていた“星野さん”というご婦人の接客が素晴らしく、その方の所作に何度も仕事疲れを癒された記憶がある。もうだいぶ以前に辞められたようだが…。

 西口には、東武ストア本館の他に1階に“ドトール”があり、2階には“TSUTAYA”があった。どちらも愛用していたが“TSUTAYA”は今年7月末に閉店。新しい店が入る告知はなく、シャッターは未だ閉ざされたままである。定職に就かずフリーのライター稼業で糊口をしのいでいた時期は、ヒマだったからこの“TSUTAYA”で頻繁にDVDを借りた。黒澤映画や「男はつらいよ」は全作品をここで鑑賞したと言っても過言じゃない。沢田研二のファンだったから、ドラマ「悪魔のようなあいつ」が全巻揃っていたのを見つけたときは驚嘆したものだ。邦画の品揃えは結構充実していたと思う。

 西口には、徒歩2分ぐらいのところに岩盤浴「きらく」もある。同店のオープンはちょうど10年前の2007年。家計簿をひもとけばその2007年の11月には、10年前の今日つまり14日も含めて10回同店を訪れている。3日に1度か…。まだナイタイがあり「ベストクラブ」の誌面作りに奔走していた頃である。まさに自分最後の輝きといっていい時代…。

 翌2008年の5月20日に、給与未払いの会社都合で自分はナイタイを辞める。以降は、下り坂ゆえに勢いもついたまがうかたなき“転落人生”…。本当に悲惨だった。よく駅のプラットホームから身を投げ出さなかったものである。でもわかる。自分には、死神の代わりにもっと恐ろしい貧乏神が憑りついているのだな(苦笑)。だからかえって“死の誘惑”とは無縁だったんだろう…。

 2014年9月1日・月曜。勤め帰りに地元みずほ台の「大」で独酌。酒は黒ホッピーセットの中いちおか(わり)。つまみは、串焼きメニューからハツとつくねを塩で2本ずつ・自家製厚揚げ。お通しはピリ辛風味の漬けマグロ。締めて1,620円なり。
 
 「きらく」で汗を流した後は、“芳林堂書店”で新刊を購入し“ドトール”で一服しつつ読み耽る。そして、頃合いを見計らい「大」の暖簾をくぐる。休日はそんな過ごし方が理想である。まぁ、なんやかんやあってそうスムーズにいかないことの方が多いが…。

 今日のお題は“地元夜話”にする。今の物件で暮らすようになってから来月で丸12年になる。築云十年のオンボロアパートだが、駅まで自分の足で徒歩5分弱と近いこと・風呂トイレ別にしては家賃が安いこと・みずほ台という街が気に入っていることが相俟って今日まで住み続けている。引っ越す気はない。このままずっとここにいたいとさえ思いもする。
ラベル:大 みずほ台店
posted by 彦左小路郎 at 23:51| Comment(0) | 物書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月04日

あゆ圧巻

 2014年8月31日・日曜。本来なら出勤にあたるこの日、会社から休みを貰い電車を乗り継ぎ、自分は味の素スタジアムへと足を運んだ。“a‐nation”という音楽イベントを観るためである。

 最寄り駅は京王線沿線・飛田給。改札口周辺は、友人を待つ10代・20代の主に“ギャル”連中でごった返している。その群れに混ざり、このイベントに招待してくれた先輩・飛鳥 翔氏を待った。当然のことながら肩身が狭い。よほど帰ろうかとも思う。

 “a‐nation”とは、“a‐vexレコード”所属のミュージシャンによるイベントである。自分が普段親しんでいる音楽は、ハードロックやブルースロック・パンクロック。年齢的にもそういうギャル御用達の音楽には縁遠い。しかし、飛鳥氏の精神年齢は永遠に20代なのだ。話しのネタにと師匠の誘いに乗ってみる。自分はそっち方面に関して全くの門外漢なので、かえって新鮮に興味深く観ることができた。

 イベントのトリを飾ったのは浜崎あゆみ。もちろん初見である。ミリオンセールスを記録したヒットナンバーですら自分は1曲も知らない。かと言って嫌いなわけではない。興味がないだけだ。しかし、これが良かった。感心を通り越し感動した。いや、感動を通り越し感激した。そのくらい圧倒的だった。

 他の出演者は、あらかじめイベントに備えたセットリストをあくまでイベントとしてカラオケをバックにこなしていた(ように見えた)。つまり“流して”いた。に対して浜崎あゆみのステージは完全に“ライヴ”だった。バックバンドの音圧は凄まじいし、バックダンサーのパフォーマンスは流麗だ。

 その中で、彼女は、“浜崎あゆみグループ”のリードヴォーカリストとして、バンドやダンサーと一体化し、渾身のシャウトを聴かせスタジアムを駆けるのだ。今ある自分をすべて出し切ろうとしていた。その姿はアイドルやポップスターではなく、もちろんJKやキャバ嬢のカリスマでもない。過去の栄光にすがらず、進取の気性に富み、あくまで今を生きる。そんな姿勢が凝縮されたまさにロックだったのだ。

 すべてが終わり、駅からそう遠くない場所に所在する古色蒼然とした酒場の暖簾を飛鳥氏とくぐる。家計簿には店名が記載されていない。何を呑み何を食べたのかも書かれていない。ただ、たらふく呑みたらふく食べたという記憶だけは鮮明。しかし、自分がその店で使った額は2,000円となっている。それだけ飛鳥氏が多めに支払ってくれたのだ…。

 あれから丸3年が経つ。このブログを書くにあたり飛田給周辺の居酒屋事情をネットで調べてみた。吉田 類さんも訪ねた「いっぷく」というお店がそうなのかと一瞬思ったが、同店の所在地は駅南口。自分が飛鳥氏と呑んだ店は北口近くにあったのだ、確かに。

 今日のお題は“あゆ圧巻”にする。ネットでは色々な輩が色々なことを浜崎あゆみについて書くが、自分は彼女のファンである。バンドが生演奏であれだけの大音量を出す女性歌手のライヴなど今この日本においては絶無だろう。それに負けまいとシャウトするから彼女の声はあそこまで嗄れてしまったのだ。ロックである。
posted by 彦左小路郎 at 18:56| Comment(0) | 物書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月10日

育ての親

 確実に恩人と呼べる存在が自分には二人いる。

 一人が、レジャー週刊誌・ナイタイスポーツ(以下ナイスポ)の名物編集長であり業界内においてミスター ナイトライフを謳われた山田鉄馬氏。山田さんとの邂逅については別ブログ上で克明に綴っている。山田さんは、学歴も実務経験も何もない僕を、ほぼ面談即決でナイスポの編集部員に採用してくれた。忘れもしない1994年11月7日・月曜。その日が自分のナイスポ初出勤日であり、言葉本来の意味における生誕日だと僕は思っている。それまでの人生など単に前世に過ぎない。オレは1994年の11月7日に生まれたのだ。つまり山田さんは自分の“産みの親”ということになる。

 もう一人が、このブログにもしばしば名前が登場するカメラマン兼デザイナーの飛鳥 飛氏。山田さんが自分の“生みの親”なら彼は自分の“育ての親”にあたろうか。飛鳥氏は、当時のナイスポ編集部内にあって、業界の右も左も知らず取材の段取りや入稿の手順もわからない自分に、業界の内実や仕事のノウハウを懇切丁寧に教えてくれた人である。文章を書くことしかできずそれにだけは相当なこだわりを持っていた自分の原稿も真っ先に評価してくれたのは飛鳥氏であった。それが、高卒で学歴コンプレックスの強かった自分にとってどんなに嬉しく励みになったことか。

 席が隣りだったのも飛鳥氏との距離を近づけた一因だろう。自分は、まだ正式な担当がなく遊軍記者的な立場だったから、しばしば飛鳥氏に請われ現場取材を手伝った。仕事が終わると今度は酒になる。当時ナイスポ(あの頃はまだ「週刊ナイタイ」と名乗っていた)編集部は早稲田鶴巻町のナイタイ本社ビルに入っており、その近くにある「小糸ちゃん」という酒場を飛鳥氏は行きつけにしていた。まだ下戸で進んで酒に親しむことのなかった自分は、そこで居酒屋に目覚め酒を呑むことの愉しさに目覚めた。それはまさにカルチャーショックと言っていいほどであり、その後の人生に多大な影響を与えることになる。そして、こういうブログをたとえ細々とでも延々と続けているわけである。

 2014年8月26日・火曜。北朝霞のガード下沿いに所在するホルモン焼きの名店「なかちゃん」にて飛鳥氏と呑む。酒は、自分が瓶ビール(黒ラベル)2本・青りんごサワー3杯。つまみは、二人でレバ刺し・ホルモン盛り合わせ(二人前)・鶏皮・カシラ・イカ・厚揚げ・餅をそれぞれ一人前で自分の支払い額はジャスト4,000円なり。端数は飛鳥氏が支払ってくれたのだ。

 諸事情あってナイタイを辞めたのは2008年5月20日・火曜のことだ。1年の浪人期間を経た2009年6月8日・月曜に、アダルトDVD専門誌「AV FREAK」の主にライティング スタッフとして自分は社会復帰を果たす。それも飛鳥氏の口利きのおかげであった。

 しかし、「AV FREAK」も、その1年2か月後に廃刊の憂き目に遭う。2010年8月25日・水曜のことである。自分の命日を挙げるとすれば確実にその日になろう。1994年11月7日にオレは生まれ、2010年8月25日にオレは死んだ。そしてその間そばには常に飛鳥氏がいた。

 今日のお題は“育ての親”にする。
posted by 彦左小路郎 at 18:53| Comment(0) | 物書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする